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オリジナリティ、すなわち「歪み」説

第5回 瞑想とは、ラクに生きるレッスン

私たちは平素、おのずと行なってしまっている「変形作用」に対しては、
「こういう激しい変形作用を行なっているなぁ、それが苦しみを生み出しているなぁ」
という気づきを生み出して、それをただ見つめていくしかありません。
瞑想とは、私たちの心が変形したら「変形したなぁ」と気づいておくことの練習でもあるのです。

「脚が痛いのがイヤだなぁ」というのも「変形したなぁ」と気づき、「雨が心地いい音だなぁ」と思ったら「心地いいというふうに、自分にとっての主観によって変形したなぁ」と気づいておく。
苦手な人と似たような顔の人を見ただけで「ああ、あの人に似ているな」と嫌悪感が湧いて不快になるのも激しい変形作用ですし、自分の昔好きな人だった人と面影が似たような人を見て「ああ、この人は良い感じだ」と思ったら、「あ、強いバイアスをかけて変形したな」。
そういうやや強いものから微弱なものまで、いろんな変形があります。執着の度合いが強いほど、変形の度合いも増していきます。
その「変形」をなすのが、煩悩のフィルターなのです。

瞑想中の作業はつまり、「変形」が生じたときにまず気づいてあげること。なるべくその情報に対して自分がかけている変形のフィルターに自覚的になり、見つめること。そして次のステップとしては、フィルター抜きにそのものに接する練習をしてみるのです。

瞑想をしていると、息が楽になったり苦しくなったりすると思います。
そのときも、「苦しい息だからイヤだな」っていうフィルターをかけたり、「楽な息だからうれしいな」っていうフィルターがかかっていれば、「かかっているなぁ」って気づきつつ、なるべくフィルター抜きに息そのものをただありのままに感じるということをしてみましょう。
この心が主観的に、勝手に物事を引っ張り込んできては書き換えていく作業を、ゆったりと鎮めながら、呼吸に心をよりそわせるのです。

この「ありの、まま」――そこにあるままに自分の判断を停止して感じ取るというのが、そのままストレートに「真実」ということです。
真実といっても、なにも大袈裟なことではありません、普段人間がそれぞれ主観によって、てんでバラバラに書き換えているせいで、すべてがバラバラになっているのです。すべてがバラバラなので、「バラバラなのはおかしいな、真理がどこかにあるに違いない」と思って、それぞれの人がそれぞれのてんでバラバラなことを言って、「真理とはこういうものだ」とか意見をいっぱい言っています。
しかし、「真理」っていうのはそうやって意見をいっぱい言ったり考えたりして生まれるものではない。単に「オリジナリティ」っていうものを停止していって、そこにあるものをありのままに受け止めて、そのありのままっていうのが真実なのです。

著者プロフィール

小池龍之介(こいけりゅうのすけ)

1978年生まれ。山口県出身。東京大学教養学部卒業。
月読寺(神奈川県鎌倉市)住職、正現寺(山口県山口市)住職、ウェブサイト「家出空間」主宰。僧名は龍照。
住職としての仕事と自身の修行のかたわら、一般向け坐禅指導も行なう。
著書に『読むうちに悩みが空っぽになる「人生相談」』(三笠書房《王様文庫》)、『沈黙入門』『もう、怒らない』(ともに幻冬舎)、 『考えない練習』『苦しまない練習』(ともに小学館)、 『超訳 ブッダの言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、 『平常心のレッスン』(朝日新聞出版社)、『しない生活』(角川書店)などがある。

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