第3回 行き過ぎた「オリジナリティ」が争いのもと
私たちが「書き換え」で行なっていることを客観的に捉え直しますと、それは、認識した物事を「これは望ましい」「これは望ましくない」というカテゴリーに当てはめているということです。
現実を現実のままにしておかずに、「自分にとって望ましい、望ましくない」というかたちで、全部書き換えて変形していってしまう。その変形の仕方が強ければ強いほど、その人の、ある意味「独自性」「オリジナリティ」みたいなものが生じるのです。
世の中では、あるものを見て、いかに激しくて独特な書き換え方をする心をもっているかとか、あるものを見て、ものすごい欲望に基づく妄想が連想ゲームで働いて、他の人だとなかなかそういう変形をしなさそうな非常に特殊な変形をした場合に、「個性的だ」「オリジナリティがある」「独創的だ」「芸術的だ」と言われたりします。
でも、そういった変形作用が生じたときに、真実を見つめるために本当に必要なのは、「このような変形作用が生じているなぁ」と気づき、「変形作用」を停止させることなのです。
たとえば体のどこかに痛みを感じたときに、「痛みそのもの」として受け止めて「イヤだ」という変形作用をもたらさない。あるいは、ある人に対して「すごく良い、好きだ」、あるいは「嫌いだ」というふうに感情的な変形作用が起こりそうになったときに、それを見つめながら冷静になる。その、「痛みそのものを受け止める」「見つめながら冷静になる」ということが、瞑想でいう「物事をありのままに受け止める」ということです。
こういうことを行なっていくと、多くの人は、
「実は瞑想というのは、“個性”をなくすものなんじゃないか」
という恐怖を抱きます。
けれども、私に言わせれば、「個性」というものは別に追い求めるものではありません。それどころか、この世の中には「個性」なるものが多すぎる。
それぞれの人が「個性がないない」と思って探し回っているんですけれども、実はすでに多すぎて、あまりにも多くの「こういうのがいい」という思いこみと「こういうのがダメだ」という思いこみが激しく複雑化して、非常に複雑にタコツボ化しています。
で、そのタコツボ(個性)とタコツボ(個性)が常に価値観の相違を生んで、争いをもたらしているのが現実なんですね。ある人の「妄想オリジナリティ」とある人の「妄想オリジナリティ」が、互いの自我を傷つけ合うので、闘わなければならないのです。

現実を現実のままにしておかずに、「自分にとって望ましい、望ましくない」というかたちで、全部書き換えて変形していってしまう。その変形の仕方が強ければ強いほど、その人の、ある意味「独自性」「オリジナリティ」みたいなものが生じるのです。
世の中では、あるものを見て、いかに激しくて独特な書き換え方をする心をもっているかとか、あるものを見て、ものすごい欲望に基づく妄想が連想ゲームで働いて、他の人だとなかなかそういう変形をしなさそうな非常に特殊な変形をした場合に、「個性的だ」「オリジナリティがある」「独創的だ」「芸術的だ」と言われたりします。
でも、そういった変形作用が生じたときに、真実を見つめるために本当に必要なのは、「このような変形作用が生じているなぁ」と気づき、「変形作用」を停止させることなのです。
たとえば体のどこかに痛みを感じたときに、「痛みそのもの」として受け止めて「イヤだ」という変形作用をもたらさない。あるいは、ある人に対して「すごく良い、好きだ」、あるいは「嫌いだ」というふうに感情的な変形作用が起こりそうになったときに、それを見つめながら冷静になる。その、「痛みそのものを受け止める」「見つめながら冷静になる」ということが、瞑想でいう「物事をありのままに受け止める」ということです。
こういうことを行なっていくと、多くの人は、
「実は瞑想というのは、“個性”をなくすものなんじゃないか」
という恐怖を抱きます。
けれども、私に言わせれば、「個性」というものは別に追い求めるものではありません。それどころか、この世の中には「個性」なるものが多すぎる。
それぞれの人が「個性がないない」と思って探し回っているんですけれども、実はすでに多すぎて、あまりにも多くの「こういうのがいい」という思いこみと「こういうのがダメだ」という思いこみが激しく複雑化して、非常に複雑にタコツボ化しています。
で、そのタコツボ(個性)とタコツボ(個性)が常に価値観の相違を生んで、争いをもたらしているのが現実なんですね。ある人の「妄想オリジナリティ」とある人の「妄想オリジナリティ」が、互いの自我を傷つけ合うので、闘わなければならないのです。

著者プロフィール
小池龍之介(こいけりゅうのすけ)
1978年生まれ。山口県出身。東京大学教養学部卒業。
月読寺(神奈川県鎌倉市)住職、正現寺(山口県山口市)住職、ウェブサイト「家出空間」主宰。僧名は龍照。
住職としての仕事と自身の修行のかたわら、一般向け坐禅指導も行なう。
著書に『読むうちに悩みが空っぽになる「人生相談」』(三笠書房《王様文庫》)、『沈黙入門』『もう、怒らない』(ともに幻冬舎)、 『考えない練習』『苦しまない練習』(ともに小学館)、 『超訳 ブッダの言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、 『平常心のレッスン』(朝日新聞出版社)、『しない生活』(角川書店)などがある。
1978年生まれ。山口県出身。東京大学教養学部卒業。
月読寺(神奈川県鎌倉市)住職、正現寺(山口県山口市)住職、ウェブサイト「家出空間」主宰。僧名は龍照。
住職としての仕事と自身の修行のかたわら、一般向け坐禅指導も行なう。
著書に『読むうちに悩みが空っぽになる「人生相談」』(三笠書房《王様文庫》)、『沈黙入門』『もう、怒らない』(ともに幻冬舎)、 『考えない練習』『苦しまない練習』(ともに小学館)、 『超訳 ブッダの言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、 『平常心のレッスン』(朝日新聞出版社)、『しない生活』(角川書店)などがある。
バックナンバー
- 2014年10月03日 第1回 物事そのものは「良く」も「悪く」もない
- 2014年11月26日 第2回 ネガティブな感情は、こうして生まれる
- 2014年12月25日 第3回 行き過ぎた「オリジナリティ」が争いのもと
- 2015年01月16日 第4回 「個性」、という苦しみ
- 2015年02月20日 第5回 瞑想とは、ラクに生きるレッスン